常にぐったりしている

自分の説明は自分にだけすればよいです

ステレオタイプと創作

 たぶん、人間の類型化というのは、誰しも多かれ少なかれ、意識的にしろ無意識的にしろ、やっていることだと思います。たとえば、初めて会った人に対して、受けた印象とか、今まで人間関係の蓄積から、「この人はあの人にちょっと似てるなあ」とか「この人はあのタイプの人間っぽいな」みたいなことを思ったり感じたりするのではないでしょうか。で、いろいろ話しているうちに、意外な一面があることがわかったりして、その人の類型に収まらない部分もわかってくるようになってきたりもするでしょう。

 ちなみに、この人物の類型というのはたぶん、類型化が可能な程度にわかりやすい人間の性質を抽出したものでして、まあステレオタイプと言ってよいです。

 こういう推測を踏まえると、僕たちがある人物を認識する際の現実的なモデルとして、次のような仮説が言えるのではないかと思います。つまり、関係がごく浅い時期、あるいは第一印象の時点では、その人のことをステレオタイプ的に認識しており、関係が深まってくると、ステレオタイプに収まらない、深みのある人物像が明らかになってくる、というわけです。

 別に大した話でもないんですけども、ただ、これは創作でもわりとよく見るキャラの見せ方の手法だなあ、とも思いました。つまり、そのキャラと関係が深くない内はステレオタイプ的に描写され、関係が深まっていくにしたがって、ステレオタイプに収まらない面が展開されていく、みたいな見せ方です。

 これの利点にはいろいろありまして、まず、ステレオタイプはわかりやすい、ということです。いきなりステレオタイプに収まらないわかりにくいキャラを出されても読むの疲れますし、説明も大変です。最初にキャラクターのわかりやすい部分を示されれば、とりあえずはそのキャラのことは大掴みにはわかりますし、そのわかりやすい部分を足がかりとして、次第に深い部分を明らかにしていく、という段階を踏むと、キャラクターの複雑な部分も無理なく理解されるでしょう。あと、人間は未知よりも既知に安心感を覚えるものでもあります。それに、さっき書いたように、このような人物の認識の流れは、現実の僕たちのそれに近いかもしれない、という話もあります。

 他にも、大して関係の深くないキャラクターについては、ステレオタイプ的に描写する方が、より人間の認識のリアルに近いかもしれない、とすら言えてしまうかもしれません。まあステレオタイプ的なキャラを出してもあんまり面白くないのでこれを採用するかは微妙ですが。

吐き出したものが何かを表現していることを期待する

 ローカルに溜まったゴミのような文章が今年書いた分だけでもうん十万字ありますけけども公開はしていません。理由といたしましては、毎日同じようなことを書いているから、あまりにも生活に根ざしすぎているから、などがあります。公開することを目的として書くのは面倒だなあという気分が強いときには殴り書きで済ませます。今書いてるのはブログを放置するのが少々いたたまれなくなったからです。つまり気まぐれです。文章はひたすら書いています。嘘です。最近は書いていませんでした。

 ひたすら吐き出したモノが何かを表現することを期待する、という話がありますが、これはよくわかります。いえもちろんこれを言った人の真意とかはわかりませんけども、僕がひたすら殴り書きをしたものについて思いを馳せたときにたまに感じることを言語化しようとしたときにしっくりくる言葉ではあります。これはある種の甘えではあるかもしれません。とにかく脳に負荷を掛けずに何かを生み出したいということでもあるからです。でもそれができたら最高に楽しいはずです。世にいるとんでもなく多産な小説家などはこの手の書き方ができているはずです。でなければ生産性を維持できるわけがありません。もしそうでなかったら僕の敗北です。

 たまに意図して文章を書くということに反感を覚えることすらあります。ここまでくると流石に頭おかしいので考え直す必要があります。しかし何かを表現したいという動機すら不純だというのはある先鋭的な価値観の中では圧倒的な正義ではあります。書きたいから書くという根源的な欲求、ただひたすら文章を書くのが楽しいから書く、という生き物であれたらよかったのにと思うこともあります。しかし自分の望むように自分の感じ方を変えることは少なくとも短期的にはできません。自分の心というのは実は自分のものではない部分もあります。そのように感じられない(あるいは感じてしまう)ことを責めるのはおかしいことです。

 ところで他人に感じ方を強要した瞬間にその人はパブリックエネミーとなります。地獄インターネットなどでよく見る光景です。最近でははてブどころか身内ツイッターですらきついので僕はインターネットを離れるべきです。他人やら社会やらのあり方がどうこういうのは僕自身の問題ではまったくありません。そのようなことに実存の危機を覚える必要はありません。いつもどおりひきこもっていればよろしい。自分の問題ではないものを自分の問題であるかのように語ることはよくないです。

 でこんな風に文章を書くことについて書くということをひたすら繰り返しています。文章を書いているときには文章を書くということに心を支配されてしまうので虚心に書くとどうしても文章を書くことについて書いてしまうわけです。だからひっこめてます。当然発展性などもありません。今は何らかのテーマを決めるという補助輪が必要なのかもしれません。文章を書くことは手段ではなく目的でありたいので補助輪です。しかし書いたものが何かしらを表現していることを期待している以上は文章を書くことのみが目的となることはないのでしょう。

 

書きたがる脳 言語と創造性の科学

書きたがる脳 言語と創造性の科学

 

 

最初から生まれなければ悩むこともなかった

 とりあえず死についてまず思い浮かぶのは、今死ぬのはもったいないということです。まだそこそこ若いので、何らかの向上に対する期待が捨てられません。また、両親への申し訳なさが頭をもたげてくるというのもあります。一方、苦しまず、自分が死ぬということに気づかず死ねるのならそれもいいかもしれない、という気分もあります。僕にとって死ぬことでつらいのは、苦しむことと、可能性への執着が掻き立てられることです。それさえ感じずに済ませられるのなら死も悪くないなあ、ということです。

 しかし僕も結局、死を前にした自分の生について語っています。死なんて体験したことがないのでわからないですし、今の自分は生という状態にあるので、どうしても生の立場から語ってしまいます。とはいえ、死の立場というのが具体的にどういうものかわからないので、やはり語りようがありません。生きながらにして死の風光を味わい、それについて書く、ということはできるんでしょうか。涅槃とかに至れたらできるのかもしれません。

 

生きることも死ぬこともイヤな人のための本

生きることも死ぬこともイヤな人のための本

 

 

ハロワに出頭してきました

 ハロワに出頭してきました。やたらと地元の企業をプッシュされました。前職が田舎にあるまじき破格の待遇であったことが改めてわかりました。不満なのは年間休日数と一部のあれな上司氏くらいでした。
 給与や待遇が水準以上であり、働かなくてもとりあえずは死なない環境を確保できているからこそ言える世迷い言なのかもしれませんが、お金とか時間よりも、同僚を裏切って辞めてしまったしまった後悔の方がずっと強いです。特に退職してから日が浅い時期は、仕事とか社会人スキルを身につける機会を逸し続けていることに対する焦燥感などよりも、この後悔の方がずっとずっと強かったです。後悔の強い気持ちが発作のように襲いかかってくるのです。これは本当に堪えました。
 最近は後悔に襲われる頻度はだいぶ減りました。しかし無職であること、若さを浪費していることへの焦燥感は依然として残っています。大学時代もそれなりに浪費していたように思いますが、このような焦燥感は覚えませんでした。むしろ自堕落な生活が永遠に続けばいいのにと願っていました。大学生という身分が保証されていたから目を背けるのが容易であったのかもしれません。
 一方、働いたら働いたでえらいしんどいです。どっちに転んでもしんどいです。なんで多くの人は労働とかできているのかわかりません。日本の就業人口は6698万人だそうです。わけがわかりません。

 

2日で人生が変わる「箱」の法則

2日で人生が変わる「箱」の法則

 

 finalvent先生が(いくつかの留保付きで)絶賛されていたので読みました*1。「箱」から出てすばらしい人間関係や職場を築いていきたいという気持ちが湧いてきました。でも現実は厳しいので頭で思っていることを実現するのはとても難しいです。それどころか思っていることを行動に移すことがもう難しいです。恐ろしい現実の前に立ちすくんでしまうのです。いや、恐れているだけならまだ救いようがあります。恐怖を感じるのはやろうと思っているからです。僕はそうではありません。少し心を深掘りすると、本当はそんなことどうでもいいと思っていることがわかります。やる気がないのです。まともに生きる気がないのです。これでは救いようがありません。

*1:留保付きの絶賛ってなんですか

コミケを楽しんでいる人たちを見るのがつらい

 なんでかわかりませんがつらいです。僕もあのように楽しみたかったんだという悲しみがあるのかもしれません。何もわからないです。行ったら行ったでそんなに楽しめなかったんじゃないかという気もします。何もわかりません。

 何もやる気でないし何も考えられないです。ラノベ読めないし(もともとぼくはラノベとはあまり相性の良い人間じゃないんですが)アニメすら見るのがしんどいという感じです(これももともとしんどい人です)。はてブですら見るのがしんどいです。何をしても虚しいという気持ちです。

 今日はPUBGとAOE2もやってみたんですが楽しめませんでした。ゲームすら楽しむことができません。何もできないという感じです。

 この日記もすごい支離滅裂で読めたものではありません。でも僕は本当はやりたいことがあるんです。でもまったくやる気が出ないです。何も楽しめません。何もできません。

感情の出処がわからない

 たぶん僕は今の仕事をやめることになると思います。とても不安な気持ちがあります。動機が酷いです。なんかもうとてもしんどいです。この辛さの出処がわかりません。将来の不安かもしれませんし、会社の人たちを裏切ってしまったことの後ろめたさかもしれませんし、両親に心配を掛けてしまうことかもしれません。仕事がどうしてもしんどいからやめようとしているのですが、やめることがほぼ確定的になってから、つらい気持ちがぐつぐつと沸き立ってきたのです。とにかく今は辛くて仕方がありません。

昨日の夜9時ごろ、にわかに「そうだ、天下一品に行こう」という気持ちが湧いてきました。
思い立ったが吉日ですから、ぼくは天下一品に向かう準備をはじめました。
なにせ最寄りの天一まで車で1時間半という僻地に住んでいるので、なんの対策もなしに
ふらーっとラーメン屋に寄るみたいなことをすると後悔すること請け合いなわけです。
具体的な準備の内容としては音楽を用意しました。それだけです。
ぼくは未だにニコニコ動画にかじりついている時代遅れマンですので
ボーカロイドとか演奏してみた動画から音声をぶっこ抜いていたわけです。
動画ファイルの音声コーデックはaacでした。ぼくのスマホではちゃんと再生できます。
というわけで、ちょっと前に買った64GBのmicroSDに音楽どもをぶちこむわけなんですが、
スマホにUSBケーブルをつないでも何かぱそこんがスマホを認知してくれなかったので、
このパソコンはなんてひどいパソコンなんだと憤りながら、スマホからmicroSDを引き抜き、
足の踏み場のない部屋の中からmicroSDからSDへの変換アダプタを探し出し、やっとのことで
音楽どもをmicroSDにぶちこむことができました。
完了したのは夜の10時近くになっていました。かれこれ1時間近く格闘していたことになります。
さてようやく天下一品に向けて車を走らせるターンになりました。
わたしの車は家族のおさがりですが総走行距離はせいぜい3万km程度ですのでよい車です。
それにしても深夜の休日の田舎道というのはおそろしいものです。
えらいまっすぐでだだっぴろい道路です。人も車もまったくおらんのです。
音楽に乗りに乗っていることもあり、いえ具体的な速度を書くとアレなことになりますので書きませんが、
気づいたらスピードメーターがえらいことになっているというわけです。
これではいかんと思い、スピードメーターをちらちらチェックしながら慎重に走行をしました。
しかしこのスピードメーターちら見もあまりよくない対処法であるように思われます。
田舎道特有の出来事として、深夜の他に誰もいない真っ暗な道路のわきを、おじいちゃんおばあちゃんがゆっくりと歩いている
なんてこともたまーにあるわけですが、そんなチラ見をしていては、いくら制限速度で走行していたとしても、
彼らに気づけないということがありうるのです。
よってこれに対処する方法としてよりよい解決策であると思われるのは、
体内に備わっているスピードメーターの精度を高めることです。
ぼくのような素人が深夜の田舎道を走行するのは大変危険ですのでやめたほうがいいです。
しかしそのときのぼくはどうしても天一のこってりを食いたいという気分がありましたので走行を続行しました。
ところでぼくはVOICEROIDが好きなんですけれども、走行している最中は、いわゆる車載動画のような感じで脳内実況していました。
暗い田舎道を走りながらえらいゆるい雑談をだらだらとしているような動画がぼくの脳内で再生されていました。
なかなか楽しかったです。深夜のドライブの醍醐味のひとつであると言っても過言ではありません。
妄想が醍醐味というのはどうなんだというツッコミをされるとまあたしかにそれはそうですよねとなります。
音楽聴きながら脳内車載動画を再生しつつとろとろ運転すること1時間半くらいでしたでしょうか、
やっとのことで天下一品につきました。
侵入には右折が必須なのが面倒なので、以前はわざわざ回り込んで左折進入することもあったのですが、
今回はいい感じで信号が変わってくれたので右折進入しました。
深夜で交通量が比較的少なかったことも影響していたかもしれません。
ここの駐車場は住宅街の中にありまして、排ガスを家にぶっかけないためにも、前進駐車でお願いします、
みたいな看板がありましたので、看板に従いまして前進駐車をしました。
しかしぼくは前進駐車がえらい苦手なので正直いやだなあという気分もありました。
ぼくはバックが下手くそなんです。
前進駐車してバックで発進するのと、バック駐車して前進で発進するのとを比べると、
個人的には後者の方がめちゃくちゃやりやすいという気持ちがあります。
しかしぼくは理性を働かせて前進駐車をしました。これはとてもえらいので褒めてください。
あとで駐車場から出るときはえらいゆっくりでバックしながら慎重に国道に戻りました。
さて天下一品のラーメンです。こってり大を頼みました。
待ち時間は竹田青嗣ハイデガー入門を読んでいました。
入門と銘打ってはありますがえらい難しかったです。
それよりもラーメンのことの方が気にかかってあまり集中できなかったので、
なるほど今のわたしはまさしく頽落した実存ちんぽであることだなあと思いました。
そうこうしているうちにラーメンが届いてきまして、食いました。おいしかったです。
やや麺が粉っぽい感じがしないでもないでしたがスープがおいしかったのでどうでもいいです。
しかしライスを頼むのを忘れていたのは痛恨のミスでした。
ぼくは家系とかも大好きなんですけれども、あれがすばらしいのは
ラーメンといっしょに米を食うとめちゃうちゃうまいところです。
こってりのスープがちょっと残ってしまったのでなおさら米を頼んでおけばよかったと後悔しながら飲み干しました。
今度来るときはミニ明太子丼セットを頼もうと思います。
で食い終わって会計をすませてバック発進しながら天下一品を後にしました。
帰りにローソンによってオレンジジュースとおにぎりを買いました。
なんでおにぎりを買ったのかよくわかりません。米への執着が残っていたのかもしれません。
ここのローソンはえらいやる気のないローソンだという印象が残っています。
なんというか、さびれた個人商店みたいな雰囲気がありました。
なんか照明が暗かったのがあれだったのかもしれません。
そういえば店長のエントリにも照明の効果について力説してたやつがあった気がします。
まあでもこういう雰囲気も嫌いではないので別によいです。
そんでちょっと休憩したあとにまた車を走らせおうちに帰りました。
帰ったら0時を過ぎていました。体感時間との差が大きいです。
もう2時くらいの感覚でいました。なんだか得した気分になりました。
しかし本当に天下一品に行っただけなのでたぶんあんまり得していないです。
ラーメン食うためだけに4時間くらい潰して100km以上車走らせるというのはどう考えても正常ではありません。
ぼくの脳はすでにラーメンに支配されていたのです。ラーメンは麻薬です。みなさんも気をつけてください。

 

ハイデガー入門 (講談社学術文庫)

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