品性の欠片もない

自分の説明は自分にだけすればよいです

反出生主義と仏教の相性は悪いんじゃないか

タイトルをもう少し正確に言うと、反出生主義と仏教の輪廻説は相性が悪いんじゃないかと思います。輪廻説に従うならば、たとえ人類が滅亡したとしても、我々は何らかの別の生物に輪廻転生してしまうからです。人間を産まなかったとしても、我々は生の苦悩から解放されることはありません。

仏教的見地からすると、生の苦悩から逃れる術は唯一、解脱に至ることです。しかし、解脱という概念を理解し、解脱に向かって修行できるような知性を持った生命というのは、少なくともこの地球上には人類しか存在しません。とすると、人間を産むことは、解脱に到る可能性を持つ生命(輪廻の当体)を増やすことにも繋がる「善い」ことなのではないか、という反出生主義とは真逆の立場を導くこともできるかもしれません。

あくまで仏教の輪廻説は「物語」に過ぎない、という理解をするならば、反出生主義と仏教は両立します。また、解脱を真の反出生の達成と見るならば、仏教も反出生主義的であると言えるでしょう(特に初期仏教や上座部仏教)。しかし、少なくとも現在の反出生主義については、仏教との相性はあまりよくないのではないか、という疑問はそれなりに正当なものなのではないかと思います。

 

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

  • 作者:魚川 祐司
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2015/04/24
  • メディア: 単行本
 

 

最初から生まれなければ悩むこともなかった

 とりあえず死についてまず思い浮かぶのは、今死ぬのはもったいないということです。まだそこそこ若いので、何らかの向上に対する期待が捨てられません。また、両親への申し訳なさが頭をもたげてくるというのもあります。一方、苦しまず、自分が死ぬということに気づかず死ねるのならそれもいいかもしれない、という気分もあります。僕にとって死ぬことでつらいのは、苦しむことと、可能性への執着が掻き立てられることです。それさえ感じずに済ませられるのなら死も悪くないなあ、ということです。

 しかし僕も結局、死を前にした自分の生について語っています。死なんて体験したことがないのでわからないですし、今の自分は生という状態にあるので、どうしても生の立場から語ってしまいます。とはいえ、死の立場というのが具体的にどういうものかわからないので、やはり語りようがありません。生きながらにして死の風光を味わい、それについて書く、ということはできるんでしょうか。涅槃とかに至れたらできるのかもしれません。

 

生きることも死ぬこともイヤな人のための本

生きることも死ぬこともイヤな人のための本

 

 

ハロワに出頭してきました

 ハロワに出頭してきました。やたらと地元の企業をプッシュされました。前職が田舎にあるまじき破格の待遇であったことが改めてわかりました。不満なのは年間休日数と一部のあれな上司氏くらいでした。
 給与や待遇が水準以上であり、働かなくてもとりあえずは死なない環境を確保できているからこそ言える世迷い言なのかもしれませんが、お金とか時間よりも、同僚を裏切って辞めてしまったしまった後悔の方がずっと強いです。特に退職してから日が浅い時期は、仕事とか社会人スキルを身につける機会を逸し続けていることに対する焦燥感などよりも、この後悔の方がずっとずっと強かったです。後悔の強い気持ちが発作のように襲いかかってくるのです。これは本当に堪えました。
 最近は後悔に襲われる頻度はだいぶ減りました。しかし無職であること、若さを浪費していることへの焦燥感は依然として残っています。大学時代もそれなりに浪費していたように思いますが、このような焦燥感は覚えませんでした。むしろ自堕落な生活が永遠に続けばいいのにと願っていました。大学生という身分が保証されていたから目を背けるのが容易であったのかもしれません。
 一方、働いたら働いたでえらいしんどいです。どっちに転んでもしんどいです。なんで多くの人は労働とかできているのかわかりません。日本の就業人口は6698万人だそうです。わけがわかりません。

 

2日で人生が変わる「箱」の法則

2日で人生が変わる「箱」の法則

 

 finalvent先生が(いくつかの留保付きで)絶賛されていたので読みました*1。「箱」から出てすばらしい人間関係や職場を築いていきたいという気持ちが湧いてきました。でも現実は厳しいので頭で思っていることを実現するのはとても難しいです。それどころか思っていることを行動に移すことがもう難しいです。恐ろしい現実の前に立ちすくんでしまうのです。いや、恐れているだけならまだ救いようがあります。恐怖を感じるのはやろうと思っているからです。僕はそうではありません。少し心を深掘りすると、本当はそんなことどうでもいいと思っていることがわかります。やる気がないのです。まともに生きる気がないのです。これでは救いようがありません。

*1:留保付きの絶賛ってなんですか

コミケを楽しんでいる人たちを見るのがつらい

 なんでかわかりませんがつらいです。僕もあのように楽しみたかったんだという悲しみがあるのかもしれません。何もわからないです。行ったら行ったでそんなに楽しめなかったんじゃないかという気もします。何もわかりません。

 何もやる気でないし何も考えられないです。ラノベ読めないし(もともとぼくはラノベとはあまり相性の良い人間じゃないんですが)アニメすら見るのがしんどいという感じです(これももともとしんどい人です)。はてブですら見るのがしんどいです。何をしても虚しいという気持ちです。

 今日はPUBGとAOE2もやってみたんですが楽しめませんでした。ゲームすら楽しむことができません。何もできないという感じです。

 この日記もすごい支離滅裂で読めたものではありません。でも僕は本当はやりたいことがあるんです。でもまったくやる気が出ないです。何も楽しめません。何もできません。

感情の出処がわからない

 たぶん僕は今の仕事をやめることになると思います。とても不安な気持ちがあります。動機が酷いです。なんかもうとてもしんどいです。この辛さの出処がわかりません。将来の不安かもしれませんし、会社の人たちを裏切ってしまったことの後ろめたさかもしれませんし、両親に心配を掛けてしまうことかもしれません。仕事がどうしてもしんどいからやめようとしているのですが、やめることがほぼ確定的になってから、つらい気持ちがぐつぐつと沸き立ってきたのです。とにかく今は辛くて仕方がありません。

かつて不安だった自分のことを忘れないようにする

 会社に入ってばかりのころは何もわからないし何したらいいかわからないし会社の人こわいしでとても不安でした。ですがいちばん最初に僕に仕事を教えてくださった先輩はとても素朴な方ではありましたがいつもやさしくニコニコしている方でして、ぼくはその先輩に緊張を取り除いてもらっていました。最近は会社にも慣れてきて当時のような種類の不安を覚えることは少なくなりました。でもあの不安は忘れないようにしたいです。もし将来ぼくと同じような不安を抱えている人がぼくの前に現れたら、それを察したいからです。先輩と同じようにニコニコしてあげたいです。少しでも不安を取り除いてあげたいです。それはかつて不安だったぼくを救ってくださった先輩への恩返しです。もしも、かつての不安を忘れて、目の前の誰かの不安を軽んじるようなことがあれば、それは忘恩です。かつての自分を忘れることです。かつて不安だった自分を助けてくれた人がいて、その人のお陰でかつてと同じような状況に置かれても不安にならない現在の自分に至れたのに、自分と同じような不安を感じている人に共感を抱けないことは、かつての自分の不安を取り除いてくださった方への忘恩だと感じられます。こち亀のOP『おいでよ亀有』でも「誰でも一度は子供だったけどみんな忘れてる 」と歌われていました。若干意味が異なるような気がします。

好きなだけごろごろしていたい

 気力が続くかどうかは別として、やりたいことやできるようになりたいことがいくつかあります。文章かけるようになりたい。楽しく小説書けるようになりたい。プログラミングにも没頭したい。時間を忘れてピアノを弾いていたい。積んでる本をたくさん読みたい。山小屋に引きこもって暮らしたい。これらはすべてお金とかたいしてなくてもできることです。お金よりも時間と体力と気力が必要なものばかりです。どうやったらそれらを確保できるかを考えねばなりません。仕事やめるか。それ以外でな。

 現実的な方法としてはまず時間をうまくやりくりできるようにするということがあります。だらだらスマホいじったりしてる時間をほんとうにやりたいことにあてればいいわけです。しかしぼくは時間を忘れてだらだらしていたいというのもすごくやりたいことですのでだらだらスマホをいじったりしてる時間というのも大切な時間であるわけです。つまり時間を気にせずにしたいことだけしていたいわけです。いやそれが現実的ではないから次点としてあまりない余暇を有意義に使おうとしているわけですが、でもそれってほんとにぼくがやりたいことじゃないんですよ。時間とか湯水のように使ってやりたいですし寝たいときに寝て起きたいときに起きたいですし好きなものを好きなときに好きなだけ食ってたいですし、ようするに、えらい陳腐なことばになりますが、自由がほしいわけです。時間を好きなように使いたいのです。それがぼくのいちばんの望みです。