クソ上司のクソさを発揮させるクソ新人(それがわたし)
書くべきことはいろいろあるのですがめんどくさいので書きません。100均で買ったクッキーうめえ。たった100円でこんなすばらしいものが買えるなんてなんて恵まれているんだろう。お金プア時間リッチが最適戦略です。
本日は一瞬だけめちゃくちゃしんどかったんですけど全体としてはわりといいテンションで仕事ができました。いつもこのテンションで仕事ができたら楽なんですけどね。よいテンションを保つためにはある程度の負荷が必要であるようです。あくまでぼくはという話ですが。
しかしミスが極端に多いです。物忘れもめちゃくちゃ多いです。上司に何度も注意されます。うちの上司は先腐れは少ないですが後腐れがめちゃくちゃ多いです。つまり注意は理性的に淡々とされますが後で陰口をめたくそ叩かれます。あまり隠そうとも思っていないようで、本人が隣にいてもこそこそ陰口叩いたりするような人です。サイコパスかなんかなのでしょうか。しかしぼくは基本的にアホなんであって直接怒鳴られる殴られるなどの極めてわかりやすい悪意でないと感じ取れない人なので少なくとも自分が悪く言われる点についてはわりと平気ではあります。
まあ上手く回っているときはいい人ではあるのです。昨日は子どもの卒業式で有給とってましたが(まあもともと特に理由もなく休みまくる人ではあるのですが)、それが関係あるのかどうかわかりませんが、なんか今日は丸かった気がします。いつもこんなんだったらいいんですけどね。いやそれだと辞めにくくなるのでやっぱクソ上司のままで居てください。
ぼくの上司が真にクソ上司であると僕は断定することができません。僕には上司がクソな振る舞いをすると安心してしまっている部分があるかもしれません。「ああやはりこの人はクソなのだ」と安心して罵ることができるからです。いい振る舞いをされると困るのです。ここに認知が歪んでいる可能性、あるいは自らクソな振る舞いを誘発させている可能性が示唆されます。
文章の落書き
タブレットを買いました。安物ですが十分動いてくれます。ルーターとの相性が悪いようでネットはあんまりできないのが玉に瑕ですがそれでも楽しんでいます。あと筆圧感知もしてくれるようで、そこそこお絵かきもできます。firealpacaが上手く使えたらいいなーと思っていたんですけどタブレットにはあんまり対応できていないようですのでお絵かきはもっぱらスケッチパッドでしています。レイヤー機能さえあればなあ……と、ここまでは前フリです。
お絵かきをしていてふと思ったのですが、このブログは落書きなのだと思いました。あるいは下書き。あるいはアタリ。ちゃんとした文章を書くのはしんどいのでほとんど自動筆記でだだだっと勢いに任せて書いているのですけれども、その文章の精度とか適当具合が、タブレットで落書きしているときの線や絵のクオリティに似ているなあという、ものすごく漠然としていて曖昧な印象をいだきました。ここのブログに書いている文章はえらい適当で、線がぐにゃぐにゃでぶれていて、アタリとかは書いてないいきなり書きで、そのために全体的に歪んでいて……という感じで、お絵かきにおける落書きっぽい文章になっています。ガチって書いた文章と比較してみるとよくわかります。この文章は落書きです。
落書きで誠実に自分の心象を言語化できているのかというと微妙です。どういうことかというと、それは自分に誠実であろうとすることに反するのではないか、という話なんですが、このブログは自分の心象のアタリを書いているのだと考えれば、まあ許せるかなあ、と思っています。本当にきっちり自分の心象をデッサンするのはしんどすぎて続かないです。続けられないのではだめです。完璧ではなくても、だいたいの精度で、あんまりにも外しすぎることはせず、全体として自分の心象を書き留められることができれば、今の段階では及第点かなあと思います。元々言語化がものすごく苦手だったので、このブログはとりあえず言語化をしてみようという目的で始めたということもありまして、この考え方と実践は目的に合致しています。思考のセーブポイントです。
書かなければ、自分が何を考えていたのか忘れてしまう、という事情もあります。忘れてしまって、一定期間ごとに、同じことを何度も考えているということがあります。一度通った道を引き返して、何度も同じ地面を踏みしめている、という感じです。それもまったくの無意味ではないのですが、そればかりを繰り返していると、先に進むことができません。堂々巡りのままではだめなのです。メモ書き程度でもいいので、とりあえず言語化して残しておくというのは、考えるという営為を行う上でとても有効ですし大切です。だからこのブログは、少なくとも今の時点では、落書きでもいいです。もっと言語化がスムーズにできるようになって、文章を書くことにもこなれてくれば、よりよい精度で自分の心象をデッサンできるようになるんじゃないかなあと安易に思っています。もちろんちゃんとした訓練も並行して続けていく必要はあるでしょうが。つまりぼくが言うところの「がちった文章」を書く、ということです。はあ。
あと、ちょっと前のエントリのリフレインみたいになりますが、ぼくが考えることにこだわるのは、ぼくが考えられない人だからです。考えられないために考えるということに憧れているのです。永遠のwannabeです。またこのフレーズでしめるのか。
愚痴めっちゃ多い
このブログではできるだけ心のブレーキを取っ払って文章を書くようにしています。他のところ*1ではいろいろセーブしながら穏当なことを書いているのですが*2、こちらではあまりセーブせずに思ったままをだだっと書いています。それがこのブログの存在意義でもあります*3。でとくに何もセーブせずにいろいろ書いてみたのですが、びっくりするくらい愚痴が多いです。これはよくありません。それは自分が本当は愚痴ばかりを感じている人間であるということだからです*4。ぼくは愚痴を聞くことは嫌いではありませんが愚痴を言うことは好きではないので複雑な気分です。このブログは自分の思っていることを正直に書くために作ったので、自分が愚痴のようなことを思っているならば、自分の感じた愚痴をそのまま書かねばなりません。他人とのコミュニケーションをとる上で愚痴を吐くことを僕は自分にあまり許容したくないのでしませんが、このブログにおいてのみその制限は撤廃されます*5。愚痴を言うのが嫌なのであれば、愚痴を感じないような自分になるしかありません。愚痴を言わないという選択肢は、このブログには存在しません。それは自分を偽る行為だからです。自分が愚痴を感じているならば愚痴を書かねばなりません。
*1:ついったーとか
*2:あれで穏当?
*3:チラシの裏ということです。ただし誰にも読まれない文章を書いていられるほどぼくはストイックではないですし、そこまで文章を書くことが好きなわけでもないので、とりあえず文章を書くことに対するモチベーションを上げるためにアップするようにしています。なぜ文章を書かないといけないのかは過去数回くらいのエントリで書きました(丸投げ)
*4:あるいは無意識の内に愚痴ばかりを選択的に言語化しているのかもしれませんが。バイアス!
*5:ついったーでゆってるつらいつらいいたいとかは愚痴かもしれませんがブログに書いているような本格的な愚痴はあまり言わないようにしています。このブログは吐き出すため、排泄するためにあります。ゲロ袋であり便器です。こういう表現は嫌われるのでやめましょう
誠実さにこだわる理由
なぜぼくが誠実さにこだわるのかというと、ぼくは誠実ではないからです。誠実でいられない自分が嫌だからです。しかし誠実であることはとても難しいし、誠実でありつづけることはもっと難しいです。それはとてもしんどいことです。ぼくはしんどいことは苦手なので誠実であることは苦手です。ですが誠実でなければ自分をスポイルしてしまうという直感があります。もう自分のことなんてどうでもいいやという気分もあるにはあるのですが、それでももうちょっとがんばりたい、という気分もあります。誠実であろうとした美しい人々に感化されているだけなのかもしれません。しかしそのようにありたいと一瞬でも願った自分が存在したことも事実です。
自分がどう感じたかを誠実に把握すること
今日は会社の先輩といっしょの時間にタイムカードを切りました。いつも遅くまで残っておられる方です。気のいいおじいちゃんでお酒とか得意らしいです。もうすぐ定年だそうです。まだ出会ったばかりですがとてもいい人です。ぼくにはわかります。別にぼくじゃなくてもわかります。これからというときに別れることになりそうで残念だなあという気持ちがあります。
不思議な気持ちです。たぶん今別れることになったら残念だなあくらいの気持ちです。が同時に2~3年もいっしょに働いていれば、残念で仕方がなくて、別れるのがつらくて、いっそ出会わなければよかった、と感じるくらい残念だなあくらいの気持ちになりそうだという直感があります。この2つの感情の振れ幅に戸惑っている部分が少しだけあります。
自分がそのように感じたことはまぎれもない事実です。自分がそう感じたと申告すると、他の人は、こいつはそのように感じたのだなあ、と判断するしかありません。なので自分はこう感じたのだと語ることは最強です。誰にも否定することはできないからです。
しかし同時に危険もあります。自分が本当はどのように感じたのかを誠実に観察するのは難しいことです。それを言葉に変換して、文章にして残すことはもっと難しいです。言語化すると思考は固着します。自分の心を誠実に観察し、正直に、感じたままを書くことができなければ、それは自己欺瞞となって自分にはねかえってきます。自己欺瞞はあらゆる不幸の源泉のひとつです。
そしてそのとき「なぜ」そのように感じたのかを知ることはもっともっと難しいです。自分というのは関数です。感情は出力です。その感情を引き起こした直接的な外的要因は入力です。入力のみを以って「『なぜ』そのように感じたのか」を説明することはできません。自分というわけのわからないブラックボックスを解体しなくてはなりません。それは途方もない作業です。