品性の欠片もない

自分の説明は自分にだけすればよいです

自分がどう感じたかを誠実に把握すること

 今日は会社の先輩といっしょの時間にタイムカードを切りました。いつも遅くまで残っておられる方です。気のいいおじいちゃんでお酒とか得意らしいです。もうすぐ定年だそうです。まだ出会ったばかりですがとてもいい人です。ぼくにはわかります。別にぼくじゃなくてもわかります。これからというときに別れることになりそうで残念だなあという気持ちがあります。

 不思議な気持ちです。たぶん今別れることになったら残念だなあくらいの気持ちです。が同時に2~3年もいっしょに働いていれば、残念で仕方がなくて、別れるのがつらくて、いっそ出会わなければよかった、と感じるくらい残念だなあくらいの気持ちになりそうだという直感があります。この2つの感情の振れ幅に戸惑っている部分が少しだけあります。

 

 自分がそのように感じたことはまぎれもない事実です。自分がそう感じたと申告すると、他の人は、こいつはそのように感じたのだなあ、と判断するしかありません。なので自分はこう感じたのだと語ることは最強です。誰にも否定することはできないからです。

 しかし同時に危険もあります。自分が本当はどのように感じたのかを誠実に観察するのは難しいことです。それを言葉に変換して、文章にして残すことはもっと難しいです。言語化すると思考は固着します。自分の心を誠実に観察し、正直に、感じたままを書くことができなければ、それは自己欺瞞となって自分にはねかえってきます。自己欺瞞はあらゆる不幸の源泉のひとつです。

 そしてそのとき「なぜ」そのように感じたのかを知ることはもっともっと難しいです。自分というのは関数です。感情は出力です。その感情を引き起こした直接的な外的要因は入力です。入力のみを以って「『なぜ』そのように感じたのか」を説明することはできません。自分というわけのわからないブラックボックスを解体しなくてはなりません。それは途方もない作業です。