読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

品性の欠片もない

自分の説明は自分にだけすればよいです

文章の落書き

日記 雑記

 

 タブレットを買いました。安物ですが十分動いてくれます。ルーターとの相性が悪いようでネットはあんまりできないのが玉に瑕ですがそれでも楽しんでいます。あと筆圧感知もしてくれるようで、そこそこお絵かきもできます。firealpacaが上手く使えたらいいなーと思っていたんですけどタブレットにはあんまり対応できていないようですのでお絵かきはもっぱらスケッチパッドでしています。レイヤー機能さえあればなあ……と、ここまでは前フリです。

 

 お絵かきをしていてふと思ったのですが、このブログは落書きなのだと思いました。あるいは下書き。あるいはアタリ。ちゃんとした文章を書くのはしんどいのでほとんど自動筆記でだだだっと勢いに任せて書いているのですけれども、その文章の精度とか適当具合が、タブレットで落書きしているときの線や絵のクオリティに似ているなあという、ものすごく漠然としていて曖昧な印象をいだきました。ここのブログに書いている文章はえらい適当で、線がぐにゃぐにゃでぶれていて、アタリとかは書いてないいきなり書きで、そのために全体的に歪んでいて……という感じで、お絵かきにおける落書きっぽい文章になっています。ガチって書いた文章と比較してみるとよくわかります。この文章は落書きです。

 落書きで誠実に自分の心象を言語化できているのかというと微妙です。どういうことかというと、それは自分に誠実であろうとすることに反するのではないか、という話なんですが、このブログは自分の心象のアタリを書いているのだと考えれば、まあ許せるかなあ、と思っています。本当にきっちり自分の心象をデッサンするのはしんどすぎて続かないです。続けられないのではだめです。完璧ではなくても、だいたいの精度で、あんまりにも外しすぎることはせず、全体として自分の心象を書き留められることができれば、今の段階では及第点かなあと思います。元々言語化がものすごく苦手だったので、このブログはとりあえず言語化をしてみようという目的で始めたということもありまして、この考え方と実践は目的に合致しています。思考のセーブポイントです。

 書かなければ、自分が何を考えていたのか忘れてしまう、という事情もあります。忘れてしまって、一定期間ごとに、同じことを何度も考えているということがあります。一度通った道を引き返して、何度も同じ地面を踏みしめている、という感じです。それもまったくの無意味ではないのですが、そればかりを繰り返していると、先に進むことができません。堂々巡りのままではだめなのです。メモ書き程度でもいいので、とりあえず言語化して残しておくというのは、考えるという営為を行う上でとても有効ですし大切です。だからこのブログは、少なくとも今の時点では、落書きでもいいです。もっと言語化がスムーズにできるようになって、文章を書くことにもこなれてくれば、よりよい精度で自分の心象をデッサンできるようになるんじゃないかなあと安易に思っています。もちろんちゃんとした訓練も並行して続けていく必要はあるでしょうが。つまりぼくが言うところの「がちった文章」を書く、ということです。はあ。

 

 あと、ちょっと前のエントリのリフレインみたいになりますが、ぼくが考えることにこだわるのは、ぼくが考えられない人だからです。考えられないために考えるということに憧れているのです。永遠のwannabeです。またこのフレーズでしめるのか。