品性の欠片もない

自分の説明は自分にだけすればよいです

吐き出したものが何かを表現していることを期待する

 ローカルに溜まったゴミのような文章が今年書いた分だけでもうん十万字ありますけけども公開はしていません。理由といたしましては、毎日同じようなことを書いているから、あまりにも生活に根ざしすぎているから、などがあります。公開することを目的として書くのは面倒だなあという気分が強いときには殴り書きで済ませます。今書いてるのはブログを放置するのが少々いたたまれなくなったからです。つまり気まぐれです。文章はひたすら書いています。嘘です。最近は書いていませんでした。

 ひたすら吐き出したモノが何かを表現することを期待する、という話がありますが、これはよくわかります。いえもちろんこれを言った人の真意とかはわかりませんけども、僕がひたすら殴り書きをしたものについて思いを馳せたときにたまに感じることを言語化しようとしたときにしっくりくる言葉ではあります。これはある種の甘えではあるかもしれません。とにかく脳に負荷を掛けずに何かを生み出したいということでもあるからです。でもそれができたら最高に楽しいはずです。世にいるとんでもなく多産な小説家などはこの手の書き方ができているはずです。でなければ生産性を維持できるわけがありません。もしそうでなかったら僕の敗北です。

 たまに意図して文章を書くということに反感を覚えることすらあります。ここまでくると流石に頭おかしいので考え直す必要があります。しかし何かを表現したいという動機すら不純だというのはある先鋭的な価値観の中では圧倒的な正義ではあります。書きたいから書くという根源的な欲求、ただひたすら文章を書くのが楽しいから書く、という生き物であれたらよかったのにと思うこともあります。しかし自分の望むように自分の感じ方を変えることは少なくとも短期的にはできません。自分の心というのは実は自分のものではない部分もあります。そのように感じられない(あるいは感じてしまう)ことを責めるのはおかしいことです。

 ところで他人に感じ方を強要した瞬間にその人はパブリックエネミーとなります。地獄インターネットなどでよく見る光景です。最近でははてブどころか身内ツイッターですらきついので僕はインターネットを離れるべきです。他人やら社会やらのあり方がどうこういうのは僕自身の問題ではまったくありません。そのようなことに実存の危機を覚える必要はありません。いつもどおりひきこもっていればよろしい。自分の問題ではないものを自分の問題であるかのように語ることはよくないです。

 でこんな風に文章を書くことについて書くということをひたすら繰り返しています。文章を書いているときには文章を書くということに心を支配されてしまうので虚心に書くとどうしても文章を書くことについて書いてしまうわけです。だからひっこめてます。当然発展性などもありません。今は何らかのテーマを決めるという補助輪が必要なのかもしれません。文章を書くことは手段ではなく目的でありたいので補助輪です。しかし書いたものが何かしらを表現していることを期待している以上は文章を書くことのみが目的となることはないのでしょう。

 

書きたがる脳 言語と創造性の科学

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