品性の欠片もない

自分の説明は自分にだけすればよいです

愚痴めっちゃ多い

 このブログではできるだけ心のブレーキを取っ払って文章を書くようにしています。他のところ*1ではいろいろセーブしながら穏当なことを書いているのですが*2、こちらではあまりセーブせずに思ったままをだだっと書いています。それがこのブログの存在意義でもあります*3。でとくに何もセーブせずにいろいろ書いてみたのですが、びっくりするくらい愚痴が多いです。これはよくありません。それは自分が本当は愚痴ばかりを感じている人間であるということだからです*4。ぼくは愚痴を聞くことは嫌いではありませんが愚痴を言うことは好きではないので複雑な気分です。このブログは自分の思っていることを正直に書くために作ったので、自分が愚痴のようなことを思っているならば、自分の感じた愚痴をそのまま書かねばなりません。他人とのコミュニケーションをとる上で愚痴を吐くことを僕は自分にあまり許容したくないのでしませんが、このブログにおいてのみその制限は撤廃されます*5。愚痴を言うのが嫌なのであれば、愚痴を感じないような自分になるしかありません。愚痴を言わないという選択肢は、このブログには存在しません。それは自分を偽る行為だからです。自分が愚痴を感じているならば愚痴を書かねばなりません。

 

 

 

 

*1:ついったーとか

*2:あれで穏当?

*3:チラシの裏ということです。ただし誰にも読まれない文章を書いていられるほどぼくはストイックではないですし、そこまで文章を書くことが好きなわけでもないので、とりあえず文章を書くことに対するモチベーションを上げるためにアップするようにしています。なぜ文章を書かないといけないのかは過去数回くらいのエントリで書きました(丸投げ)

*4:あるいは無意識の内に愚痴ばかりを選択的に言語化しているのかもしれませんが。バイアス!

*5:ついったーでゆってるつらいつらいいたいとかは愚痴かもしれませんがブログに書いているような本格的な愚痴はあまり言わないようにしています。このブログは吐き出すため、排泄するためにあります。ゲロ袋であり便器です。こういう表現は嫌われるのでやめましょう

自分のことばと他人のことばの境界線なんて本当は引くことはできないのだとは思うのだけれど、それでも

 どこからどこまでが自分の考えたことであるのかがわかりません。自分が考えたと思っていることが、実は誰かの受け売りにすぎなかったりするかもしれません。作曲をしているときに、過去に聞いたことのある曲を、無意識のうちにコピーしてしまうように、過去に読んだことのある本や聞いたことのある言葉を、無意識のうちになぞっている可能性があります*1。それは果たして本当に「考えている」と言えるのでしょうか。*2

*1:当然この文章についても例外ではありません

*2:ある部分では考えているといえるかもしれませんが、ある部分では間違いなく考えていないでしょう

誠実さにこだわる理由

 なぜぼくが誠実さにこだわるのかというと、ぼくは誠実ではないからです。誠実でいられない自分が嫌だからです。しかし誠実であることはとても難しいし、誠実でありつづけることはもっと難しいです。それはとてもしんどいことです。ぼくはしんどいことは苦手なので誠実であることは苦手です。ですが誠実でなければ自分をスポイルしてしまうという直感があります。もう自分のことなんてどうでもいいやという気分もあるにはあるのですが、それでももうちょっとがんばりたい、という気分もあります。誠実であろうとした美しい人々に感化されているだけなのかもしれません。しかしそのようにありたいと一瞬でも願った自分が存在したことも事実です。

自分がどう感じたかを誠実に把握すること

 今日は会社の先輩といっしょの時間にタイムカードを切りました。いつも遅くまで残っておられる方です。気のいいおじいちゃんでお酒とか得意らしいです。もうすぐ定年だそうです。まだ出会ったばかりですがとてもいい人です。ぼくにはわかります。別にぼくじゃなくてもわかります。これからというときに別れることになりそうで残念だなあという気持ちがあります。

 不思議な気持ちです。たぶん今別れることになったら残念だなあくらいの気持ちです。が同時に2~3年もいっしょに働いていれば、残念で仕方がなくて、別れるのがつらくて、いっそ出会わなければよかった、と感じるくらい残念だなあくらいの気持ちになりそうだという直感があります。この2つの感情の振れ幅に戸惑っている部分が少しだけあります。

 

 自分がそのように感じたことはまぎれもない事実です。自分がそう感じたと申告すると、他の人は、こいつはそのように感じたのだなあ、と判断するしかありません。なので自分はこう感じたのだと語ることは最強です。誰にも否定することはできないからです。

 しかし同時に危険もあります。自分が本当はどのように感じたのかを誠実に観察するのは難しいことです。それを言葉に変換して、文章にして残すことはもっと難しいです。言語化すると思考は固着します。自分の心を誠実に観察し、正直に、感じたままを書くことができなければ、それは自己欺瞞となって自分にはねかえってきます。自己欺瞞はあらゆる不幸の源泉のひとつです。

 そしてそのとき「なぜ」そのように感じたのかを知ることはもっともっと難しいです。自分というのは関数です。感情は出力です。その感情を引き起こした直接的な外的要因は入力です。入力のみを以って「『なぜ』そのように感じたのか」を説明することはできません。自分というわけのわからないブラックボックスを解体しなくてはなりません。それは途方もない作業です。

だるすぎて何も書けないので脳内垂れ流しした

 なにもしたくありません。モチベーションがないです。何もない。何もしないをしたい。しかし何もしないはモチベーションがなくてもできます。モチベーションがないとできないことはたくさんあります。もう駄目です。何も考えずに適当にタイピングしているだけです。つらい。なにもできない。愛されたいとかはないんですけどとにかく何かを生み出せたらいいなとおもってるんですけどめんどくさい。適当に手を動かしてたらモチベーションが出て来るんじゃないかと思ってなんかちんちん文章をかいてますけど別になんもモチベーションとか出てこないです。なにもしたくない。なにもできない。だるい。めんどくさい。やりたいことはないけどできるようになりたいことはあります。なんだそれは。

 できるようになりたいことというのは結果です。たとえば絵をかけるようになりたいとかプログラミングをできるようになりたいとかです。やりたいことというのは過程です。絵を描くこと自体、プログラミングすること自体です。過程を楽しむこと、もっと言えば過程を目的にすることができなければつらいだけです。つらいのを我慢して結果を手に入れるというのはある意味で本末転倒です。ルサンチマン入りました。死にたい。

人は一人では生きられない

 人は一人では生きられないというのは、人には一人で生きる能力がないから一人では生きられない、ということではなく、人は生きているというただそれだけのことで不可避的に誰かの役に立ってしまうために一人では生きられない、ということです。能力的にではなく原理的にそうなっています。